戸石薫さん写真

戸石薫(といしかおる)さん

1990年生まれ。大学生の時に高校からアルバイトで貯めた全財産で世界一周の夢に挑戦。途中で事故に遭い頸椎を損傷、四肢麻痺の車椅子ユーザーに。その後、日本マイクロソフト社に2年契約で入社。契約満了後、すぐに5年間コツコツと貯めた全財産でアメリカに3か月語学留学するもホームステイ先で恐喝といじめに遭う(笑)。

初めまして!冒頭から散々な紹介文で失礼いたしました!では本編をどうぞ!

あれは大学3年の夏、好きっだった女の子に振られて、単位を落として留年が決定したまさにその瞬間─キラーンっ!「ふっ計画通りっ」。

僕にはある夢があった。それは漫画みたいに船で「海賊王に俺はなる」とか言いながら世界一周をすることだ。正直言うと子どもの時からずっと夢にみていた。

時が経つにつれて、僕の夢への思いは増し、そのためのアルバイトも増えた。アルバイトは浅草で人力車やテーマパークのスタッフ、派遣の仕事等を掛け持ちして週に8回バイトをしていた。大学にも通っているわけで、睡眠時間もなく半狂乱の精神状態だった。世界一周の夢はお金をかければできることだけど寝転がっていてそれは得られるものでもなく、高校球児の熱量と同等の覚悟で夢に臨んだ。

ついに2年半の労力とあらゆる犠牲で得た対価を手放す時が来た。人生で初めて夢を叶えたと思った。豪華客船に乗り、僕は拳を天に突き上げ「海賊王に俺はなるっ!」。

そのわずか3週間後、気づくと僕はサウジアラビアの病院にいた。

手足が動かなかった。寝れば治ると思い、起きては寝てをひたすら繰り返したが僕の手足はピクリとも動かず、「僕の人生が終わった」。病院のベッドの上で永遠と変わらない天井の模様を眺め続けた。

あの時、船のプールサイドで足を滑らせ、頭から水の張っていないプールの底へ衝突。首の骨は折れ、神経を損傷し、僕は胸から下を動かせなくなった。

東京の病院に3週間ほどいた後、福岡県の病院で2年間のリハビリ、その後大分県でさらに2年間のリハビリ、この期間の長さがこの障害の過酷さを物語るだろう。決してサボっていたわけではなく、むしろその逆で、起きてる間トイレ・風呂・飯以外の時間をリハビリに使った。

これ以上どこに余白があるのかわからないほどに人生の4年間をリハビリに費やした。

その間25mのプールを1人で作れるんじゃないかと思うぐらい夜ごと泣き明かした。それは大袈裟にいうと、チープに感じるほど現実は小説より奇なりだった。

その後、就職するために1年間職業訓練校に通い、Webデザインの勉強を毎日していた。プログラミングは最初はてんでダメで、講師に怒られてばかりだった。

就職活動は案の定苦しく、自分のスキルよりも体のことを聞かれて、「どうやってPCを打つの?」「車椅子でどうやって(会社に)来るの?」etc…。

僕の障害で、できないことを言うと、そこを広げて突き落とす。何度、僕の心は折れただろうか。

日本マイクロソフト社の求人に応募すると言った時、同じ訓練生は僕を嘲笑った。何とでも言いたきゃ言え、どうせもう失うもののない人生なのだ。夢ぐらいみたって、もう与えられる罰もないだろう。

思いがけず僕は、日本マイクロソフト社に入社が決まった。うれし涙は何年ぶりだろう、自然と流れる雫に乾いた心は少しだけ報われた気がした。

そこでの日々は、次から次へと押し寄せる難題だらけだったが、充実していた。契約社員だった僕は2年の契約満了後、この体で初の海外、初の留学をするべくアメリカロサンゼルスへと旅立った。ねらいはもちろん今後の世界一周に向け課題を集める前哨戦。

現在は、東京コロニー就労移行支援事業所にて支援員として利用者さんにITトレーニングを指導している。

僕の今後の夢は2つある。1つ目は、世界一周の夢を叶えて、ほんの少し誰かに勇気を与えること。2つ目は、孤独や絶望を味わった僕だからこそ築ける、世界中の誰一人取りこぼさずに笑い合える居場所を作ることだ。

2つ目の夢については、今年の8月にデンマークのエグモントホイスコーレという教育機関に半年間留学をし、そのヒントをつかめたらいいなと思っている。

「新ノーマライゼーション」2021年2月号「ひと~マイライフ」より転載