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堀川真一(ほりかわしんいち)さん

1986年東京生まれ。15歳で「横紋筋肉腫」、1年間の闘病生活後、29歳の時に「骨肉腫」で左足を大腿部から切断、義肢装具サポートセンターでリハビリ(歩行訓練)を行い、歩行を獲得して社会復帰。現在は、義肢装具サポートセンターで事務をしつつ、義足の良さを知ってもらうための体験会や出張授業等のイベントにも参加している。また、最近はスポーツ用義足を履いて走ることへもチャレンジをしている。

私は15歳の時に左あごの筋肉にがんができました。手術では患部を切除し、それを補うためにお腹の筋肉を移植しました。治療には高校を1年間休み、抗がん剤治療と放射線治療を約10か月行いました。苦しい治療でしたが、病状は順調に回復し、退院後は高校に通いながら半年に1回の経過観察で、がんが再発することはありませんでした。しかし、左あご周辺を大きく切除したことにより、左顔面の神経麻痺と左耳が聞こえづらいという後遺症が残りました。

初回の手術から10数年後の29歳の時、突然骨肉腫という希少ながんになりました。前回のがんが転移したものではなく、新たに発病したものでした。2度目の発病ということもあり、「なぜ自分だけがこんな目にあわなくてはならないのか」と大きなショックを受けましたが、落ち込んでいる時間もなく治療が始まりました。治療は前回同様の化学療法を行いました。しかし、今回は治療の効果もなく左足を太ももから切断することになりました。

手術後、医師の紹介で義足を製作している施設を紹介してもらい、入所しました。その施設が、現在、私が職員として勤務している公益財団法人鉄道弘済会義肢装具サポートセンター(以下、サポートセンター)です。サポートセンターに入所中には、約5か月間のリハビリを行い、大腿義足を装着しての歩行を獲得しました。医師から義足を紹介されるまでは半ば引きこもりがちでしたが、義足に出会い人生が変わりました。

膝下の切断者であっても義足を装着してリハビリをすれば歩ける可能性があるにもかかわらず、車椅子を使った生活を余儀なくされている方が大勢います。それどころか、リハビリをする前に「歩くこと」をあきらめている切断者もたくさんいます。これは、世の中の人たちが義足に関する知識をもっていないからだと思います。

そもそも義足の存在を知る機会は、テレビでパラリンピックの選手紹介をみるか、身近に義足ユーザーがいるくらいではないでしょうか。私は、義足についてもっと多くの人に知ってもらいたいとの思いから、人生を変えてくれた鉄道弘済会に就職しました。

サポートセンターでは、障害理解や人権教育の一環として、小・中・高等学校等での出張授業を行っています。

2016年6月、私に「荒川区の小学校で開催する出張授業に行ってみないか」と初めて声が掛かりました。最初は自分の義足姿を人に見せることに抵抗がありました。しかし、職場の先輩で義足の先輩でもある永橋義肢装具士が自分をさらけ出すような姿で授業をしているのを見て、私の「はずかしさ」は吹っ飛んでしまいました。今では、自分や切断障害について知ってもらいたいとの思いが強く、そのためであれば、自分の足の切断部や義足の姿をみせることにも抵抗がありません。

この出張授業をはじめこれまで参加したイベントを含めると、多くの方との出会いがありました。その中から特に印象に残っているエピソードを紹介させていただきます。荒川区の高校生600人が対象の出張授業に行った時のことです。講演終了後に数人の生徒が控室に来て、足を切断することや義足歩行の大変さなど熱心にいろいろと質問してくれました。この時、自分たちの取り組みが一部の人たちにだけではあっても実を結んだことを実感でき、感激のあまり胸が熱くなりました。この時の感激は今でも忘れることはありません。

私がこのような活動に参加できるのは、自立型財団の鉄道弘済会だからこそだと思います。また、サポートセンターの本業は義肢装具の製作ですが、出張授業も本業に負けないくらい意義のある活動だと思います。私はこの鉄道弘済会に就職した1年後に、肺へのがん転移が見つかり、再々手術をしました。現在は元気に過ごしているのですが、今後も、可能な限り出張授業を継続して行い、一人でも多くの人に義足の有用性について知ってもらえるよう活動していきたいと思います。


自ら保有する資産の運用によって福祉事業を維持・運営している財団

「新ノーマライゼーション」2021年7月号「ひと~マイライフ」より転載